2022年度 日本史部会発表要旨 |
一、東寺領荘園弓削島荘における年貢収取の様相と変遷 広島大学 波多冬椰 弓削島荘とは、現在の愛媛県越智郡上島町弓削島に存在していた東寺領荘園であり、塩による年貢納入が行われていたことから「塩の荘園」として知られている。弓削島荘に関しては先学諸氏による豊富な研究の蓄積が存在しているが、年貢・公事の収支決算書である散用状など、弓削島荘の年貢関連史料に注目し、それらを包括的に検討した研究はみられない。散用状の時期的な変化を分析し、その要因や荘園社会に与えた影響を検討することは、荘園の実態をとらえるうえで有用であり、東寺の財政における弓削島荘の位置づけや、弓削島荘を取り巻く社会構造とその変化を検討するにあたっても不可欠の作業だと考えられる。 本報告では、東寺百合文書中にみられる弓削島荘関係文書のうち、特に散用状を中心として、その他種々の年貢関連史料を素材に分析し、東寺財政における弓削島荘の位置づけや、弓削島荘を取り巻く社会構造を把握し、さらにその変遷を明らかにしたい。
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二、室町期山名氏惣領による領国支配と守護代犬橋満泰 広島大学 木下和司 室町期の山名氏惣領による領国支配については、多数の研究実績が存在している。山名氏惣領は在京を義務付けられていたために、実際の領国支配は守護代に委ねられていたと考えられる。応永の乱後、山名氏惣領は対大内氏対策の担い手として芸備両国の守護職を獲得する。その守護代には、応永年間末期から享徳年間末までの約半世紀に渡って犬橋満泰が任じられている。また、嘉吉の乱後、山名氏惣領は播磨の守護職を獲得し、犬橋満泰は播磨守護代にも任じられ、東寺領矢野庄例名の支配にも関係している。 犬橋満泰について「満」は足利義満の偏諱であり、「将軍直臣」であったとの指摘がなされ、その出自についても近江源氏佐々木氏の庶子で幕府外様・鞍智氏の一族であると指摘されている。本報告では、備後・安芸・播磨三ヶ国の犬橋満泰関係史料分析を通じて、将軍がその直臣を守護代として有力守護家に送り込むという事例について検証してみたい。守護代の補任は、単純に守護の意志だけで決められるものではなく、その時々の政治情勢によっては、複雑な様相を呈することを示してみたい。 |
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四、豊臣期毛利氏の広島城・城下町建設 広島大学 中原寛貴 豊臣期の広島は、大名毛利氏のもとで成立して間もない時期にあたる。その研究は毛利家当主、輝元の広島城・城下町建設事業を論じるなかで進められており、新体制への転換を目指した主体的な判断によるものとして長らく理解されてきた。しかし、一九八〇年代から、広島城は郡山城にとって代わるものではないことなどが明らかにされた。さらに近年では、広島築城は豊臣秀吉に忖度した結果といった見解が提示されている。 上述した研究史を繙いたとき、豊臣政権と毛利氏の関係に注目した研究が、意外にもあまりないことに気がつく。本報告は、こうした状況の改善を図りたい。このために、①新城の建設とともに豊臣秀吉により命じられたとされる、交通路の整備との関連性について分析する。また、②安芸厳島や備後尾道・鞆といった中世以来の都市との比較検討を行う。これによって、いうなれば、都市としての前史がない段階の広島の実態を考察したい。 |
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六、慶応二年イギリスにおける大名の位置づけ ―駐日公使パークスの薩摩・宇和島訪問を事例として― 長崎大学 田口由香本報告は、イギリス駐日公使パークスの薩摩・宇和島訪問を事例として、慶応二年(一八六六)のイギリスにおける大名の位置づけを検討するものである。パークスは、幕長戦争開戦後の緊迫した状勢のなか薩摩藩と宇和島藩を訪問し、各藩において藩主の歓待を受けた。そして、その様子をイギリス本国と幕府に報告している。石井孝氏は、パークスの訪問目的を「諸大名の対外友好関係促進の基盤の上で朝・幕・藩関係を融和させ、日本政局の安定をもたらそうと」したものとしている(『増訂
明治維新の国際的環境』吉川弘文館、一九六六年)。 |
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